果てしなき流れの果てに

自由に書き自由に消す

鏡に映して変わってゆく身を綴る

「誰にも見せない創作」のひとつとして日記を薦めたい。

書いてる瞬間から救われるし読み返しても面白い。

他人と向き合うためにはまず、日記書きくらいの自分との深い付き合いは必要。

自分との付き合いは面倒です。

深く生々しくて面倒すぎるときはさっさと寝て、翌朝の適度な客観的な頭で書いてます。


Twitter含め、ほとんどのSNSやブログのフォーマット(特に日本語を書く場合)は全く美しくないので気が散るばかり。

だったら万年筆や羽根ペンやガラスペンのインクを散らすほうがいい。


縦書き段落頭一字下げの古臭い形式が今の私には一番合っている。

書くことが多すぎるので箇条書きで書いてた頃もあったけど、各事項が最初から箇条書きで出てくるほど論理的な人間ではないので「つらつら」書ける段落というものを愛してます。

パラグラフは愛していません日記では。

150万人のユダヤ人の子どもたちのことは誰も覚えていてくれない

エヴァの震える朝』という本を先日、手にした。
表紙の中で静かに微笑む少女の写真に魅了されたからだ。
この本には15歳の少女が生き抜いたアウシュヴィッツという傍題がつけられている。

この手記を書いたエヴァ・シュロスはアンネ・フランクの義姉ということで注目を浴びたが
そのような肩書きはどうでもよく、このエヴァ・シュロスという少女個人の人生の手記として本作を読んだ。

 

本を手にしてまずはざっと目を通し大体の内容を把握した。
幾つもの小さな奇蹟が訪れ、少女はその一つひとつの奇蹟に導かれるようにしてアウシュヴィッツを母親と共に生き抜いた。
まず"選別"の時点から奇蹟は起こる。
通例、15歳に満たない子どもは収容所につくと即ガス室行きとなったそうだ。
しかし、エヴァの場合は母親が「スーツケースは取りあげられてしまうかもしれないから、せめてこれを身につけるのよ」と15歳の少女にはあまりにも不恰好な大人びたコートと帽子を身につけさせられる。
この母親の行動が功を奏し、エヴァガス室行きを免れ母親と共に収容所生活を送ることになる。
多くの母親たちは"選別"の時点で娘を失っており、二人の親子は収容所内でも羨ましがられたという。
またエヴァが高熱を出した際にガス室行きになることを恐れながらも病院へ向かうと、病院内で従兄弟のミニという看護婦が収容所で偶然にも働いており、母親がミニを見つけ思わず声を上げ抱擁する。
このミニという看護婦から母親とエヴァは食べ物を余分に与えて貰うこともできたという。
「死の天使」の異名で恐れられたメンゲレ博士に母親が"選別"された際もこのミニの助けによって死から逃れられ親子は奇蹟的に再会を果たす。
やはり人間というのは「運」からは逃れられず、この「運」によって人生が左右されるものなのだと深く実感させられる実話だ。
もし、エヴァが収容初期段階で高熱を出し病院に行っていなければ、母親の付き添いがなければ、ミニに出会うこともなかっただろう。ミニがいなければ更に酷い栄養失調で母子共に餓死した可能性もある。
まして一度は"選別"された母親はミニの存在がなければ間違いなく火葬場の煙と化したに違いない。

では、亡くなった人々はこの「運」が無かったのだろうか……と考えると「きっと違うと思いたい」という気持ちと、「事実、そうかもしれない」という気持ちが交錯し複雑な感情が胸に渦巻く。
エヴァは収容中、神などこの世界には存在しないと考え、また人が善であることを信じられなくなったという。
収容所から生還後は一時期無神論者になるも年月が過ぎるにつれ、やがて敬虔な信仰心を取り戻したという。

 

ビルケナウ(アウシュヴィッツ)では実際に命の危機を感じたことがたくさんありましたが、私は希望を失いませんでした。
希望を失えば、すぐに死んでしまうのです。ですから私たちは諦めることだけは決して、しなかったのです。

このようにエヴァは告白している。

 

収容所から生還した心理学者ヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧』においても「クリスマスには家に帰れる、という希望を失った者たちがこの時期大量に死んでいった」という記述がある。
過酷な労働、精神の崩壊、死と隣り合わせの日々…あらゆる恐怖と身体的疲弊・緊張・飢餓の中においても希望を持ち続けた人間の生存率が高かった、というのは非常に興味深いものだと思う。
フランクルの著は心理学者であるだけに心理学的側面から収容所生活という状況を見た非常に俯瞰的視点を持って書かれている。
その点では本作は個人の感情・体験の描写がよりリアリティーを持って書かれているがゆえに収容所内部における家族愛という稀なケースの中での側面が深く窺える。
臨床・学術的観点では図ることのできない人間の感情の揺れ動き、
そして過酷な状況におかれても愛を求め家族を愛する人間というものの存在が生々しい。

 

嗚呼!戦前の少女小説

久しぶりに少女小説が読みたくなり本屋へ足を運び、川端康成の『親友』を手に取った。

(街の小さな本屋に置いてあるとは思いもしなかった。こういう予想外が起こるから本屋はいい。)


発表は1954年ということだが、パラパラめくったところ恐ろしいまでに文体・言葉遣い・登場人物たちの会話に何の興奮もなく戦前発表の同じくして川端康成『乙女の港』のあの感動はどこに……という風であった。


現代から考えればそれでも美しい文体、会話が連なるのであるが、やはり少女小説は戦前のものに限る、とひどく痛感した。


と、同時に川端康成でも時として裏切られるこの戦後における文学・言葉・文体とは――と思わず考えてしまった。


無論、幼年の少女向き雑誌に掲載された小説であるし、平易な言葉で少女たちにもわかりやすく書かれているわけであるから川端康成の文章レベルがこんなものという意味では決してない。

執筆というのは文学者でも小説家でも記者でもライターでも、どのような形であれ"書く"ということは対象者に心を寄せる、対象者を思いやるそのようなやさしさがなければ書けないものだ。


「書く」ということはいつだってやさしさだ。


やさしい心がなければ大衆向けの商業としての執筆は成功し得ない、と言っても過言ではないだろう。

(「やさしい心」なんて、なんと凡庸な表現だろうか。

しかし実際にしてこの言葉が私には正しいように思う。

割り切り、だとか調和などという言葉をあまり使いたくない。)


とりたて、このような幼年の少女たちが読む読み物となれば飽きっぽい彼女たちを活字に向かわせるようなストーリー展開、そして長年蓄積された多彩な語彙から平易な言葉への変換(これはほとんど日本語の二重翻訳といっても過言でない)、

そして少女雑誌という手前、多少訓話的な素養も含有せねばならない。


しかし、一体何なのだろう……

戦前の『花物語』『小さき花』『わすれなぐさ』『乙女の港』のあの言葉、会話、文体の激しい興奮!これらを上回る美しい文体ってあるのか、美しく且つコケティッシュな会話ってあるのか――と恐ろしいまでに戦慄する。


例えば昭和7年に少女向け雑誌『少女の友』に掲載された吉屋信子『わすれなぐさ』における会話はこのような具合だ。

 

「あの軽井沢の御招待は折角ですがお断りいたすように母が申しましたから。だって浅間山が此頃よく爆発するからあぶないって申しますの」「あら、素敵じゃありませんか。火の山の赤い溶岩に打たれて埋もれてしまって軽井沢がポンペイの廃墟のようになれば”ろまんちっく”だと私いつでも思うのよ。でも貴女はおいや?私と一緒に溶岩に打たれるの」


戦後の少女小説はこれらに比べると、あまりにも平凡であるように私の目には映る。

戦後の少女小説エスー同性愛色がかなり激減している点も子ども向けながらに妖艶な、奇妙な色っぽさのような魅力を奪っているように思う。

健全な『少女の友』だとかそういった子ども向け雑誌で同性愛めいた小説が堂々と載り、少女たちの共感や涙、興奮を誘う!そういうものに私は10代の頃より痙攣のように胸の内で深く興奮していた。


私が激しくつまらなさを覚えたのは『親友』における登場人物の少女ふたりは妖しげな同性愛をほのめかしたり、少女に不釣合いな色めきを読者に与えることがなく至って"健全な仲良しこよし おともだち"である点である。

ここがどうも私には物足りなかった。


少女には妖しさがほしい。

妖艶な女―の手前の誘惑的な妖艶な少女。

そして絡みつくような少女たちの妖艶なやりとり!

健全にして不健全!

現代では喪失したこのエスという同性愛のご関係をひどく愛する。


川端康成『乙女の港』を一時はバイブル化し、その美しき文体・会話・世界観に酔いしれていただけに戦前ー戦後ではここまでかの川端康成でも変わるものか。

まぁ、世間もそれだけ大きく変わったのだが…という感想を抱いた。


ああ!寧ろここまで好きなら少女小説研究でも独自にしていくべきなのかもしれない。

ただ、当時無数にあったであろう少女小説吉屋信子レベルのものは少ないと思うが)は殆ど現在書籍化されておらず、読めるものは少ないという現実はあるが極めたいと思う次第だ。

 

「わすれなぐさの香水よ。お気に召して、この匂い……」「もし貴女がこの匂いをお好きなら私いつでもこの香水ばかり使うことにしますわ」 

 

このような会話がかくも日常の中にあり、大衆雑誌に掲載されるというこの戦前の日本語・会話の美しさ、魅力たるや。


ああ!一語一句、一文一文にどうして心ときめかずしていられよう。


某ファビュラス姉妹の言葉遣いが美しい、と感嘆の声が上がる現代が悲しい。

彼女たちの言葉遣いの正しさ、美しさ、誠実さは確かにこの現代においては大変に貴重な存在であり、私も彼女たちのその内面や外装の奇天烈なる過剰美(といったら怒られるか)を裏切る精神美には深く頷くものがあるが、どうしたって戦前の少女小説の会話、文体、言葉には到底及ばないのだ。

 

美輪明宏が著作であるか、テレビジョンであるか、で記憶しているが「戦争は全ての日本の美を奪った」というのはとても感じ入るばかりだ。

失われたのは日本の美しきアール・デコアール・ヌーヴォーを思わせる建築物の数々、繊細な美意識だけではない。

言葉の美、会話の美もまた戦争によって奪われた文化の一つであると私は感じ入る。

上手くいかない

 「当店スタッフおすすめ」のコーナーに、私好みのキャッチコピー付きの手作り帯をした本があり、買うべき運命であると判断した。

 自動レジがあるにも拘らず、通常のレジを選んだ。少しでも混むと、「よろしければこちら自動レジお使い頂けますよ」と誘導される可能性を認識しつつ。

 なぜ通常のレジを選ぶかというと、このコピーはこのお店の方が考えられたのですか、などと生身の人間に質問をし、少しでもこの優れた言葉の秘密を紐解きたいからだ(実際には、これは質問ではなく、答えの決まった質問であり、会話の糸口である)。

 幸い、レジには一組しか並んでいなかったので、無事に人動レジでの会計ができそうだった。レジのひとは優しそうなお姉さんで、私の質問も容易に尋ねることができそうだ。

 が、「お待ちの方どうぞ」と、先ほどまではクローズしていた隣のレジがあいた。早口の声。シナリオ狂う。このようにてきぱきした人の場合、無駄の余地がないから、私の質問を切り出すのは難しい。急いでいるときならむしろこちらのお姉さんのほうが有難かったはずなので、なんたる我儘であろう。しかし、今日はレジの人におっとりしていてほしかったのだ。

 更に不幸なことに、後ろに人が並びだした。そんなときに「ブックカバーはお付けしますか」と聞かれる。

 更には「Tポイントカードご利用のお客様にはくじを引いて頂けます」ときた。嗚呼、くじを引けるのは嬉しいけれど、後ろに人が待っているときにくじを引く気分は微妙である。そして、肝心の質問を切り出すことは不可能だ。

 やんぬるかな。以上の出来事は計1分にも満たぬはずだが、今日ここまで知らず知らずのうちに気を張っていたためか、路上で涙の一粒でも眼球から出してやりたいほどに疲れた。

たまにはいい

天声人語での紹介にも惹かれていたし、流行り物を一般教養として食わず嫌いにならず読んでみようかと思い、買って読んでみた。
確かに勉強にはなったけど、好みではなかった。痛々しい。目を背けたくなるたぐい。好みかどうかが唯一の指標ではないけれども。

最近、いつどこどこで見ましたよと言われることが多く、面倒だ。
そんな時の切り返しに、そうですか、一日に二回見ると良いことがありますよ、三回見ると不幸になりますよ、と言おうと思った。
このネタをくれたという意味では、あの本は有意義であった。

みんなわかってはいる

似てるって言っちゃいましたけど、考えてみるとあまり似てないですね、申し訳なかったです。

 と言うかどうかずっと悩んでいる。必要か不要か… 不要か必要か……

みんな薄々わかってはいるだろうけど、こちらからはっきり言ったほうがみんな安心できることもあれば、言わなくとも通じているので言わなくていいこともあれば、言わないと全くわからないこともある。

言う、なんてそんな俎上に乗せる必要がない瑣末なこともある。そういう時は言わないほうが、そのあまり重要でない事柄を適切に扱っている(無視という方法で)ことになる。事実だが、状況的に、言わないほうがスマートということもある。

言ったことを全力で訂正したくなっているが、それは単なる一時的な感情のほとばしりであり、訂正前のほうが本当は正しかった、と訂正後にまた反省するかもしれない。

ちなみに、これは整理のために書いたわけではない。整理はされていないので悪しからず。

オーダーメイド

自分の言葉で話したところで、それがどれだけ、そしてどのように伝わるのかわからないということがわかってから、目の前の相手に応じて、何を、どう話すか、少しは考えるようになった。オーダーメイドだ、と毎回心の中で思う。

あの頃は、考えていることと感じていること全てが言うに値するものだと思っていた。自分の言葉がみんなに通じるとも思っていた。あんな姿勢は、今思えば、あまりにも自己完結的だ。自分しか見えない時代から脱却でき、少しは大人になれてよかったと実感している。そして今のほうが楽しいと。

しかし、話すことはともかく書くこととなると、時々、あの頃に戻りたくなる。誰にどう伝わるかなどお構いなく、自分の言葉を公に出すことが唯一絶対の目的だった頃。発信や表現という言葉でアドレナリンが出たし、自分でxxxを名乗っていた。

今なら言える、それは公然の自慰と同義であると。公然の自慰より密室のまぐわいのほうに惹かれるようになって(なれて?)安堵するけれども、今度はやや密室的なものに偏りすぎて、鍵つきのSNSでしかものを書きたくない状態なのだが、たくさんの相手の顔を思い浮かべながら言葉を選ぶことは独特の疲れを伴うので、ふと、イタかったあの頃に戻りたくなる。

とはいえ、そんな勇気はなく、そして公開されている痛いブログを使い続ける気もなく、とりあえずこのヒミツの空間に戻ってきてみたところだ。