果てしなき流れの果てに

自由に書き自由に消す

嗚呼!戦前の少女小説

久しぶりに少女小説が読みたくなり本屋へ足を運び、川端康成の『親友』を手に取った。

(街の小さな本屋に置いてあるとは思いもしなかった。こういう予想外が起こるから本屋はいい。)


発表は1954年ということだが、パラパラめくったところ恐ろしいまでに文体・言葉遣い・登場人物たちの会話に何の興奮もなく戦前発表の同じくして川端康成『乙女の港』のあの感動はどこに……という風であった。


現代から考えればそれでも美しい文体、会話が連なるのであるが、やはり少女小説は戦前のものに限る、とひどく痛感した。


と、同時に川端康成でも時として裏切られるこの戦後における文学・言葉・文体とは――と思わず考えてしまった。


無論、幼年の少女向き雑誌に掲載された小説であるし、平易な言葉で少女たちにもわかりやすく書かれているわけであるから川端康成の文章レベルがこんなものという意味では決してない。

執筆というのは文学者でも小説家でも記者でもライターでも、どのような形であれ"書く"ということは対象者に心を寄せる、対象者を思いやるそのようなやさしさがなければ書けないものだ。


「書く」ということはいつだってやさしさだ。


やさしい心がなければ大衆向けの商業としての執筆は成功し得ない、と言っても過言ではないだろう。

(「やさしい心」なんて、なんと凡庸な表現だろうか。

しかし実際にしてこの言葉が私には正しいように思う。

割り切り、だとか調和などという言葉をあまり使いたくない。)


とりたて、このような幼年の少女たちが読む読み物となれば飽きっぽい彼女たちを活字に向かわせるようなストーリー展開、そして長年蓄積された多彩な語彙から平易な言葉への変換(これはほとんど日本語の二重翻訳といっても過言でない)、

そして少女雑誌という手前、多少訓話的な素養も含有せねばならない。


しかし、一体何なのだろう……

戦前の『花物語』『小さき花』『わすれなぐさ』『乙女の港』のあの言葉、会話、文体の激しい興奮!これらを上回る美しい文体ってあるのか、美しく且つコケティッシュな会話ってあるのか――と恐ろしいまでに戦慄する。


例えば昭和7年に少女向け雑誌『少女の友』に掲載された吉屋信子『わすれなぐさ』における会話はこのような具合だ。

 

「あの軽井沢の御招待は折角ですがお断りいたすように母が申しましたから。だって浅間山が此頃よく爆発するからあぶないって申しますの」「あら、素敵じゃありませんか。火の山の赤い溶岩に打たれて埋もれてしまって軽井沢がポンペイの廃墟のようになれば”ろまんちっく”だと私いつでも思うのよ。でも貴女はおいや?私と一緒に溶岩に打たれるの」


戦後の少女小説はこれらに比べると、あまりにも平凡であるように私の目には映る。

戦後の少女小説エスー同性愛色がかなり激減している点も子ども向けながらに妖艶な、奇妙な色っぽさのような魅力を奪っているように思う。

健全な『少女の友』だとかそういった子ども向け雑誌で同性愛めいた小説が堂々と載り、少女たちの共感や涙、興奮を誘う!そういうものに私は10代の頃より痙攣のように胸の内で深く興奮していた。


私が激しくつまらなさを覚えたのは『親友』における登場人物の少女ふたりは妖しげな同性愛をほのめかしたり、少女に不釣合いな色めきを読者に与えることがなく至って"健全な仲良しこよし おともだち"である点である。

ここがどうも私には物足りなかった。


少女には妖しさがほしい。

妖艶な女―の手前の誘惑的な妖艶な少女。

そして絡みつくような少女たちの妖艶なやりとり!

健全にして不健全!

現代では喪失したこのエスという同性愛のご関係をひどく愛する。


川端康成『乙女の港』を一時はバイブル化し、その美しき文体・会話・世界観に酔いしれていただけに戦前ー戦後ではここまでかの川端康成でも変わるものか。

まぁ、世間もそれだけ大きく変わったのだが…という感想を抱いた。


ああ!寧ろここまで好きなら少女小説研究でも独自にしていくべきなのかもしれない。

ただ、当時無数にあったであろう少女小説吉屋信子レベルのものは少ないと思うが)は殆ど現在書籍化されておらず、読めるものは少ないという現実はあるが極めたいと思う次第だ。

 

「わすれなぐさの香水よ。お気に召して、この匂い……」「もし貴女がこの匂いをお好きなら私いつでもこの香水ばかり使うことにしますわ」 

 

このような会話がかくも日常の中にあり、大衆雑誌に掲載されるというこの戦前の日本語・会話の美しさ、魅力たるや。


ああ!一語一句、一文一文にどうして心ときめかずしていられよう。


某ファビュラス姉妹の言葉遣いが美しい、と感嘆の声が上がる現代が悲しい。

彼女たちの言葉遣いの正しさ、美しさ、誠実さは確かにこの現代においては大変に貴重な存在であり、私も彼女たちのその内面や外装の奇天烈なる過剰美(といったら怒られるか)を裏切る精神美には深く頷くものがあるが、どうしたって戦前の少女小説の会話、文体、言葉には到底及ばないのだ。

 

美輪明宏が著作であるか、テレビジョンであるか、で記憶しているが「戦争は全ての日本の美を奪った」というのはとても感じ入るばかりだ。

失われたのは日本の美しきアール・デコアール・ヌーヴォーを思わせる建築物の数々、繊細な美意識だけではない。

言葉の美、会話の美もまた戦争によって奪われた文化の一つであると私は感じ入る。